ボトナムは知っている:北朝鮮帰還事業50年/7 脱北果たしたが /新潟
今、気になっていることは「電波系について」ですがこんなニュースがあります。
◇向こうにはまだ家族が残る
「お母さんが帰りたかった日本に、私一人で帰ってきてしまいました」。
07年、成田空港に降り立った時、井上恵子さん(仮名、50代)は涙が止まらなかった。
脱北し、約45年ぶりに古里の土を踏み、今は関東地方で暮らす。
在日コリアンの父と日本人の母の間に生まれた。
60年代前半に家族で北朝鮮へ帰還。
父は地方で炭鉱の職を割り当てられ、1年後に死亡した。
母は朝鮮労働党員に「日本に帰して」と掛け合ったが無駄だった。
父に代わって、炭鉱で飯炊きの仕事に就いた。
北朝鮮の小学校で井上さんは「チョッパリ」と日本人をさげすむ言葉を投げつけられた。
日本から持ってきた真っ白なノートや通学かばんはすぐに盗まれた。
「貧乏人が帰国してくると聞いていたのに、北朝鮮の同級生たちもショックだったのでしょう」と振り返る。
飢えに苦しんだ。
配給は15日に1回、4人家族でコメ1キロとトウモロコシ5、6キロに過ぎない。
事情を知らない弟たちが「おかわり」と言うので、母は1日にコップ1杯、水のようなおかゆだけという日もあった。
近所の日本人妻は食料が尽き、動けなくなった。
17歳の息子が母に食べさせようとパンを盗んだが、見つかって銃殺刑になった。
処刑場には小中学生も動員される。
怖くて直視できなかったが、同情の言葉を口にする人はいなかった。
体制への批判的な言葉を口にしようものなら「明日は我が身」だった。
「恵子、日本に帰ろうか」。
やせ衰えた母は、そうつぶやいた。
「どうやって」と聞き返すと、「そうよね」と言ったきり押し黙った。
70年代に55歳で亡くなった。
そのころ、日本に帰る手段があるとは夢にも思わなかった。
◇
90年代、北朝鮮は大飢饉(ききん)に見舞われた。
配給も途絶え、生活が一番苦しい時に、井上さんは同じ帰還者だった夫を亡くした。
娘は「中国で働いて仕送りをする」と一足先に脱北した。
井上さんも後を追ったが、中国の警察につかまって北朝鮮に引き渡され、強制収容所に入れられた。
1カ月後、隠し持っていた金を監視員に渡して釈放された。
再び失敗すれば死刑になるのも覚悟の上で2度目の脱北を試みた。
中国国境のブローカーにたばこ1カートンを渡し、約10人の女性と手をつないで増水した流れの速い川を渡った。
足を踏み外せば、流されて死ぬおそれもある難所。
成功したのもつかの間、そのまま中国の農村に売られた。
娘の助けで救い出され、中国吉林省で5年以上働いた。
日本国籍があれば日本に戻れると知り、念願の帰国を果たした。
忘れていた日本語は1年たたないうちに思い出し、現在は飲食店でアルバイトしている。
北朝鮮にはまだ子どもや弟がいる。
仕送りだけでなく、彼らを脱北させるための費用をためるのに必死だ。
◇
数年前に脱北した60代の在日コリアンは「帰国者の窮状を伝えたくて日本に戻った」と話す。
日本人拉致事件があったことを知って驚いたのと同時に、日本では帰還者への関心が薄れていることに落胆した。
「日本に帰ることだけを夢見て、今も歯を食いしばっている帰還者がたくさんいるのに......」
パソコンを買い、体験を文字にし始めた。
だが、まだすべてを語るわけにはいかない。
北朝鮮に残した子どもや孫が大勢いる。
「脱北では根本的解決にならない。
あの時の帰還者がどうなったか日本人に知ってもらい、この不自然な状況を変えることに手を貸してほしい」と願う。
【黒田阿紗子】=つづく
12月16日朝刊
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最終更新:12月16日13時1分